最悪の子育ての結末

『強育論』(宮本哲也著)に
「最悪の子育ての結末とは、親が子を殺す、子が親を殺す、です」
という文章があります。
最近頻発している「誰でも良かった」という動機の無差別殺人は、親を殺したいけど実行できずに殺意が他人に向けられた代償殺人、という説もあります。

子どもが犯罪をを犯したら、それはやはり最悪の子育ての結果だと思います。
二十代の若者が事件を起こすと、親がテレビで謝っている場面がありますが、
「もし俺が何かしても、もう成人なんだから親が出なくていいからな」
と息子は言います。
でも、二十歳過ぎてもまともな判断力も自己責任能力も身につけていないとしたら、親の責任以外のなにものでもないでしょう。

たった二十年で、的確な判断力、生活能力、社会適応力などを身につけさせて自立させるのは簡単ではありません。
実際我が家でも、扶養期限がとっくに過ぎているのに自活できず、微々たる生活費を入れるだけで好き勝手なことして居候している娘がいます。
親も、出来の悪い子に産んでしまった負い目があって、なかなか強力に追い出すこともできません。
なんとかまともな生活力が身に付くまではと、多少でも勉強意欲を見せている間は仕方ないか、と甘やかしてます。
本人も負い目があるので、主婦業の半分を請け負ってます。
(といっても、母親自身がろくな家事をしていないので、微々たる仕事ですが)
遅くとも24歳までには自立させることを目標に育ててきたのに、一人目はもう無理そうです。

先日の秋葉原の事件では、犯人がネット書き込みしたという言葉が印象的でした。
「親が書いた作文で賞を取り、親が書いた絵で賞を取り、親に無理やり勉強させられてたから勉強は完璧。親が周りに自慢したいから完璧に仕上げたわけだ」
親の過干渉の最悪の結末です。

私も、父親に対して一番むかついたのは、小学校5~6年の頃、図工の宿題を勝手に仕上げられたことです。
ロウの直方体で、人間の頭を彫るのが宿題でした。
美術が得意だった父は、不器用に彫刻刀を使っているのが見ていられず、
「ちょっと貸してみろ」
と言って取り上げて、やり方を教えてくれるだけならまだしも、目鼻立ちの整った頭蓋骨の形まで完璧な人間の顔なんかを彫ってしまいました。
モアイ像みたいに四角い頭部に目と鼻と口らしきものがついてれば上等なのに。
こんなの小学生の作品に見えない、学校に持っていけやしない、と必死に崩す作業をしましたが、翌日、美術の得意な同級生に
「おまえ、親に作ってもらっただろう」
と言われても何も言い返せず、とてもくやしい思いをしました。

親は、子どものためとか言いながら、結局は自己満足のために余計なことをしがちです。
そのせいで子どもがどれだけ苦労するかなんて、思いも及ばないのです。
子育てなんて、親の自己満足のかたまりです。
こうしてあげたい、ああなってほしい、自分がこうだったから子どもだけは、など親の欲求のままに子どもは育てられます。
でも、一番子どものためになることは、親は極力手を出さないことです。
その方が親の我慢が必要で、忍耐力を試されますが、子どもにとっては、自分で考え、判断し、行動することが、一番能力を伸ばせるのです。

とは言っても、『強育論』の作者のように、算数の難しい問題を、やり方も教えず、質問も受け付けず、ただひたすら考えさせるというのは、かなり優秀な子どもでないと実行は難しいでしょう。
うちの子ども達では、すぐに別世界にとんでしまい算数の問題などに真面目に取り組まず、あっという間にやめさせられそうです。
子どもにはそれぞれ向き不向きがあり、能力の違いがあり、発育の仕方や時期も違います。
同じ年齢でも、兄弟でも、比較するのはナンセンスです。
それぞれの子どもが、自分で自分の能力を伸ばし、活かしていけるようにするのが教育です。
そのためには、最低限の手助けをし、能力に合わせて徐々に手を離していき、自分でやらせていくことが必要だと思います。

今は、エリート校に入学しても、一流企業に就職しても、堅実な将来が約束されるわけではありません。
そのおかげで親が子どもにレールを敷きにくくなったのは、良い傾向です。
親は、子どもの能力と生きる力を信じて、過干渉にならないように気を付け、極力手をかけないようにすべきです。
子どもは、親が思っている以上にいろんな能力を持っていますが、親が関わっている限り能力を発揮できません。
親は、子どもの成長と共に、子育ての時間を仕事や趣味の時間に移行させ、子どもだけの時間を増やすことです。

といっても、贅沢な個室を与え、引きこもりが可能な環境を提供することはありません。
自分の自由になる個室が欲しければ、自分で稼いだ収入で払える部屋を借りて独立すれば良いのです。
親と一緒に住む限りは、完全な自由はなくて当然だし、親兄弟との共同生活における最低限のルールを守る必要があります。

もっとも、環境に恵まれなければさっさと自立してくれるかと思えば、そう期待通りにはいきません。
男女混合の狭い子ども部屋で、夕方はたくさんの子ども達が出入りする教室になってて共同スペースは使えないという、うちみたいな最低な環境にあっても、早く独立したいと思わない子がいますからねえ。

強育論-The art of teaching without teaching-

強育論
  • 強育論
  • 著者:宮本哲也
  • 価格:1470円(税込)

【目次】

第一章 賢い子育て 愚かな子育て

最悪の子育ての結末とは?
優秀児の壊れ方
ゆとり教育の「ゆとり」とはゆとり返済の「ゆとり」と同じ
中学入試を子どもの自立に「活用」する

第二章 自立を見守るまともな母親 自立を阻む有害な母親

追い風には乗れない
誰のための学習か?
わが子をよその子と比べるということは……
弱虫ママの負け犬語録集
優しさより強さを
心の傷 身体の傷

第三章 学習に王道はあるか?  

学問の王道
学習は本能である
効率的で無駄のない勉強法?
楽は得か?
筋力と学力

第四章 頭のよくなる学習法 悪くなる学習法

中学入試とワールドカップ
努力はつらいのか?
生きるための学力
善意は正義か?

付録 実践 試行錯誤型学習と手順暗記型学習

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そろばんを学ぶ意義

幼児が珠算検定で1級を取ったことが話題になることが時々ありますが、そろばんを英才教育の一種と考える人がいます。
確かに、小さな子どもに加減乗除を教えたり九九を教えれば、記憶力は抜群に良い時期ですから、反射的に覚える場合もあるでしょう。
そうすると、この子は天才だということで、周囲の大人も熱心に特訓して、たちまち上達することもあるでしょう。
そういう子の家庭では保護者も熱心で、毎朝早く起きて、朝食前に1時間そろばんをやり、そろばん教室へも毎日のように通うそうです。

その熱心さには脱帽ですが、一体何がそこまで親子を駆り立てているのかが理解できません。
せっかく才能があるんだから、最大限に伸ばしてあげたい、という親心はわかります。
けれど、それって本当に子どものためでしょうか?
うちの子ってすごいでしょう、って自慢したい気持ちの方が大きくないんでしょうか?
幼児期にしか持てない子どもの大切な時間を奪ってないでしょうか?

小さな子どもは、親が唯一の頼りで生きていますから、本能的に親のために一生懸命になれます。
親が喜ぶ顔が見たくて、一生懸命ハイハイしたり、歩いたりして発達していきます。
その延長で、親が勉強を教えて、良くできたとき喜んでくれれば一生懸命頑張りますし、逆にできなくてがっかりしたり、怒られたりしたら、萎縮して、なんとか機嫌を取ろうとするでしょう。
子どもの方が、親よりもずっと献身的だと思います。

でも、中には私のように反抗的な子どももいるでしょう。
自意識過剰で、親なんか頼らず生きていけると信じてるような子は、親が干渉すると反抗してやらなくなります。
いろんなことに反抗してた子ども時代ですが、そろばんなどの習い事には、通わせるだけで、家でやらされたり、習っていることに干渉はされませんでした。
そのおかげで、小三の一年間で6級まで進んだので、小四のうちに3級、五年の二学期までに2級が受かれば、小学校のうちに1級は合格するだろう、と自分で計画をたてました。
そして、2級まではほぼ計画通り進みましたが、1級の検定試験で何度も失敗し、中一までかかってしまいました。

子どものくせに生意気ではありましたが、特別優秀だったわけではなく、昔は週に4~5日と毎日のようにそろばん塾に通ってましたから、小学生のうちに3級以上合格するのは普通でした。
ご両親の中には、大した苦労もなく検定試験に合格した経験から、週1~2回で同じように検定に受かるだろう、と勘違いされる方も多いのですが、今はそう簡単ではありません。
いろいろな習い事や塾に忙しい子どもにとって、そろばんにだけ集中できる環境ではなくなっています。

ことに優秀な生徒に限って、早くから進学塾に通ったり多くの習い事で忙しくなり、途中でやめるケースが多いようです。
また、最初は簡単過ぎることから始めるので順調に進んできたのに、急に難しくなって行き詰まると、「できない」ということに慣れていないために、やる気をなくしてしまう場合もあります。
そろばんの良いところは、どんなに優秀な人でも、いずれどこかでつまずき、スランプに陥り、それを乗り越えることで成長できる点だと思うのですが。

今、検定試験の上級まで目指す生徒の多くは、特別優秀というわけではなく、多くの失敗にもへこたれることなく、地道に継続できた子ども達です。
特別早く進むことにもこだわりませんし、できなくてもあまり落ち込むことなく受け止め、何度でもわからないと聞き、間違いを繰り返しながらも、いつの間にか進んでいることが多いようです。
ですから、中学、高校になっても自分の意思で続けることができます。
そういう子の保護者のほとんどが、普段はあまり深く干渉せず、いま何級で何をやっているかも知りませんが、途中で嫌になってやめたいという時だけ、目標までは続けるように勧めています。

保護者の方があきらめが早い場合も多いのですが、本人と保護者があきらめた時点で、何事も終了してしまいます。
目標に達成しないでくじけそうになっている時は、何とかフォローすることも必要です。
指導する側としても、決してあきらめないことが鉄則です。
何十回でも何百回でも、同じ生徒に同じ事を教える場合があります。
時には、このままで大丈夫だろうかと不安になることもありますが、絶対どこかでスルッと抜け出してくれます。

自分がそろばんをやって良かったと思うことは、計算が速くなったことだけではありません。
目標を達成するためには、あきらめずに続けることを身を持って実感できたことです。
最初の頃は周囲より早く進んで得意になってた時期もありますが、後から入った一年下の天才的な子にあっという間に抜かれ、世の中甘くない、ということも学べました。
昔は段位検定というのがなかったのですが、珠算塾で指導助手のバイトをしてた時、先生に受けてみないかと勧められ、何年ぶりかで珠算練習を再開しました。
20歳を過ぎて段位を取った時、教室で初めての段位検定合格者だと喜ばれました。
その時は、教えながら自分も練習するという体験ができたので、指導者講習に参加するよりも指導の勉強になりました。

計算が得意だからさらに伸ばしたい、計算が苦手だから何とか克服したい、とそろばんを始める動機はいろいろです。
元々計算が得意な人は、そろばんができなくても数字に強く、頭の中で独自の計算方法を編み出している場合もあるでしょう。
だから、必ずしもそろばんが計算力を伸ばす一番の方法とは限りません。
ただ、そろばんは数字を珠に置き換えて、目で見て指で動かして頭でイメージしてと、人間の感覚を駆使して計算を身につけます。誰にでも簡単にできるのです。
ただし、習ったことを忠実に繰り返して、反射的に指が動くまで身体で覚える必要があります。
とても時間がかかるので、途中であきらめてしまう人が多いのです。

本人が嫌になってあきらめるのではなく、保護者の方が何年もやってて級が進まないから他の塾や習い事に変える、という場合もあります。
進学塾などでどうしても続けられなくなって、という場合もあります。
そんな場合、現在挑戦している級を合格することを目標にして、合格したらやめる、というように目標達成した時点でやめることで、挫折感を減らすことができると思います。
6級に受からなくてやめたんだ、というより、6級に合格してやめたんだという方が、自分を否定せず肯定的に生きられると思うのです。

最近はそろばんが再認識され、計算力をつけるにはそろばんが一番という関心の高さは嬉しいのですが、毎日何時間も練習している天才児と同じように、週に1~2時間で飛躍的に上達できるわけがありません。
週に1~2時間でも、休まず何年も続けることで、少しずつ上達するのです。
その間には、必ず停滞する時期もあり、飛躍的に伸びる時期もあります。
何を学ぶにも一朝一夕では達成できず、上達には山あり谷ありで、自分のモチベーションをどうコントロールしていくかを知ることが大切です。

たかがそろばんですが、長期間学ぶことで、いろんな勉強、仕事、人生の縮図のような体験ができると思います。
親に言われて嫌々続けてたような子でも、検定を取るまで継続できた子は、きっと自分のことをよくわかっていて、自分の人生を大切に考えることができるでしょう。

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いとこ会

Konotori 連休中に、コウノトリの里で有名な父の故郷に行ってきました。
父方の「いとこ会」をやることになり、生存しているいとこ全12人+母親4人(父親は誰も残ってません)+子どもと孫十数人(出入りが激しくて数不明)が集まりました。
普段は、お葬式か結婚式に、それぞれの家の代表が集まるくらいで、いとこ達全員が集まったのは初めてのことです。
「いとこ会」をやろうと言い出したのも、6年前の父のお葬式で何人かが集まった時ですし、具体的に今度のゴールデンウィークにやることが決まったのも、今年一月の父の七回忌でした。

父は、男六人女三人の九人兄弟の末っ子で、生きていれば80歳です。
父の兄弟で生存しているのは、上から5番目の93歳の伯母と、8番目の84歳の伯母だけ。
父と一番仲の良かった上から7番目の7歳年上の伯父は、父が先に亡くなったことで、家族の誰よりもがっくりと意気消沈してしまい、翌年追うように亡くなりました。
すぐ近所に住んでいて、一緒に釣りに行ったり、碁をやったり、商売をしたりして、大喧嘩をしたこともありますが、それだけ仲の良い兄弟でした。
残った二人の伯母達にも、
「一番下が先に逝くなんてねえ」
と嘆かれました。

そのような兄弟関係のいとこなので、妹と同じくらいの子どもがいたりと、かなり年上のいとこ達の集まりです。
私は、集めた会費の会計を任されたりしたので、使った額と残高を計算し、お世話になった人へのお礼をさらに集金し、などとやっていると、
「エライエライ」
などと頭をなでられたりしました。(こんな年になって!)
普段、仕事でも家庭でも実家でも、親以外はほとんど年下という環境で、あまり人様からかわいがられるという経験もなかったので、子どもに戻ったような感覚でした。

小さい頃は人見知りで、母親から挨拶が下手だとか怒られてばかりいたので、親戚つき合いも好きではなく、父の故郷には6歳の頃行ったきりです。
ほとんど初対面のような、あまりお付き合いのない人達と三日間も過ごすのはどうなんだろう、というのは杞憂でした。
言いたいこと言って、口は悪いけど、ざっくばらんで、父や自分と同じような人種だらけ。同じ血縁だということがつくづく実感できました。

また、私以外の家族が遊びに行った時の写真を見せてもらってびっくりしました。
うちの次女がいる、と思ったら9歳頃の妹でした。
常々、次女は妹に似てるとは思ってましたが(妹の実の娘よりもそっくりです)ここまで似てるなんて。
次女の写真は少ないので、もらってアルバムに混ぜておこうかと思いました。

たくさんの山に囲まれて、数年前氾濫して連日テレビに映った川が流れ、山を越えると日本海という、父の育った世界をたくさん見せてもらいました。
伯母達は害鳥だと非難してましたが、今は大事に保護されているコウノトリも、父が若い頃まではたくさん飛び交っていたそうです。

夜、宴会をやったお宅から数十キロ離れた別のいとこの家まで車で送ってもらいました。
まったく外灯のない真っ暗な道をどこまでも走っているとき、妹の小二になる長男が言いました。
「信号が全然ない!着くまでに何個信号あるの?」
「そうだね。多分一個もないね」
甥だけでなく、大人達もちょっとしたカルチャーショックでした。

伯母達は、大きな台風の度に洪水に遭ったり、苦労も多かったのですが、こんな大自然の中でたくましく生き抜いて来たんだな、と思いました。
農業をやりながら、様々な職業を兼業して子どもを育ててきた働き者なので、いくつになっても何もしないでぼんやりしていることができません。
手芸をしたり、色紙や千代紙で小さな三角を組み合わせた細かい細工の小物を作ったり、手先と頭を使い続けることが、口も身体も達者で長生きできる秘訣のようです。

もう二度と会えないかもしれないから、と別れを惜しんでくれた伯母達ですが、そんなことはないでしょう。
伯母達より先に逝かないようにするには、いかに頑張るか、というのが「いとこ会」の最大の課題でした。

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オーディオブック

最近、オーディオブックにはまっています。
勝間和代さんの著書を数冊読んだ影響と、自分の新しい携帯にオーディオプレイヤーの機能があることに気づいて試してから、携帯を常にポケットに入れてます。

以前から、いろいろな学習法の本でオーディオブックを勧めてましたが、日本語のものが少ないせいか、英語のものを勧めるものが多かったので敬遠していました。
視覚情報がないと生徒の名前を覚えるのも大変なのに、耳から聞いた情報なんて残るはずない、という先入観も強く、実践していませんでした。

それでも、次女の勉強には良いだろうと勧めようと思っていたら、先に、ICレコーダーが欲しい、とねだられました。塾の英語の先生から、授業を録音して繰り返し聞きなさい、と勧められたそうです。
それで、かなり早いお誕生日プレゼントとして買ってあげたのですが、選んでいるうちに自分でも欲しくなってきました。
その場は我慢して、iPodにダウンロードして試したりしましたが、画面がない小さなタイプなので好きな作品が選べません。好きな音楽と本が混在していれば、つい音楽の方を聴いてしまいます。

そういえば今の携帯なら音楽を聴けるのでは、と調べてみると、WMPという機能がついていて、ネットからダウンロードしたオーディオブックも保存して聞けました。
今まで読みたいと思って買ったまま放っておいた新書本が、ネットでいろいろダウンロードできました。
薄い新書本でも数時間のものがあり、目で読んだ方が早いのでは、とも思いましたが、とんでもない。一日で一冊以上聴くことができました。

小説なら分厚くても熱中してすぐ読めますが、ビジネス本だと薄くてもなかなか読み進められないことがあります。特に、マンガや小説でさえ読むのが遅いと子どもたちから馬鹿にされているので、自分で読んだら一週間はかかる本でも、家事や移動や打ち合わせの待ち時間だけで一冊終わりました。

中には図や表など視覚的に見ないとわからない内容もありますが、主な内容は十分つかめて、本だと途中興味のない退屈なところで挫折するかもしれない部分も、さらっと流せるので、自分に必要なところだけ最後まで聞けます。
耳からの情報を覚えておくことに自信がなかったのですが、目で読んでも100%残っていることなどなく、印象に残った部分だけが定着するわけで、耳で聞いても印象に残る部分はあるのだから、その点は変わりません。
しかも、何度も読むことはなかなか難しくても、何度も聞くことは簡単にできます。

日本語のオーディオブックはまだ種類が少なく、最近のものではビジネスやスキルアップ関連に偏っているようですが、文学作品などでは、良い声の俳優さんや声優さんが吹き込んでいるものもあります。
小説などは、遅いと言われようが自分のペースでゆったり読みたいと思ってましたが、プロが読む世界を味わうのも良いかな、とも思い始めました。

成功している人たちの本を読むと、速読術を身に付けていて読書量もすごいのですが、みんなオーディオブックを活用しているな、と思っていました。どんなに忙しくても家事や移動などの時間は毎日あるわけで、その時間を無駄にしていないのですね。

それにしても、日本の駅ってうるさいなあ、と実感しました。
「左側を歩け」「エスカレーターは気をつけて乗るように」「白線の内側に立て」「もうすぐ電車が来る」など、同時に何重にも放送が流れてきます。
イヤフォンで聞いていても何も聞こえなくなります。
外国から来た人たちがびっくりして、大きなお世話だと言う気持ちがよくわかりました。

もっとも、駅でオーディオブックを聞いていて一番困るのは、つい笑ってしまいそうになって我慢するのが大変な時ですけど。

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読書の環境

子どもを本好きにしたい、とは多くの親が思うことでしょう。
とりあえず、手近に本があって、小さな時は親が本を読んであげること、大きくなったら親が本を読む姿を見せること、などは必要かと思います。

そうはいっても、同じ環境に育っても同じように育つとは限りません。
次女はかなり本好きで、長女も海外の文学なら読みますが、長男はライトノベルくらいしか読みません。
それでは、次女に一番本を読んであげたかというと、そうでもありません。
次女の小さい頃は、いろいろと忙しい時期で、夜になると親の方が眠くなってしまいます。読みながら半分寝ぼけてデタラメを読むので、年中子ども達から訂正されていました。
まあ、それで親は頼りにならない、と自分で読むようになったのかもしれません。

我が家には、昔実家が本屋だったおかげで、ちょっとした本屋が開けるほど本はあります。(全部読んだの?と言われると積ん読の方が多いのですが)
文庫なら日本文学、西洋文学、古典までいろいろ揃ってます。
それなのに、そのほとんどは誰も読んでくれません。

たまに、話の流れで、こんな本があってね、などと話すと興味を持ってくれます。
カフカの「変身」などは、マンガやいろんなところにパロディとして使われていたりして、元ネタはカフカだよ、なんて話すと、長女などは飛びつきます。

先日は、次女と国語の話をしていて、それにしても夭折の作家って二十年くらいの人生で普通の人の一生分の体験をするのかね、という話になり、ラディゲの話をしました。
「肉体の悪魔」なんて、十代の子が書いたとは思えないよ、なんて話をしたら、下ネタ好きの親父ギャルは俄然興味を示します。
親がそんな本読ませて良いのか、という批判は気にしません。(次女が「蛇とピアス」を友達に貸したら、なんて本貸してくれるのよ、と驚くようなお堅い親じゃないもので。)
多少際どい描写があっても、それを上回る感動があれば、ぜひ読ませたいとも思います。
しかも、同年代の17歳くらいで書いている作品であれば、文学部などで多少でも小説らしきものを書いている次女にとっては、相当な刺激になるでしょう。

普段から、興味を持ったら読んでほしいと思い、読んだ本は食卓近くに置いておきます。
(特に、勉強法などの本は、次女に読ませたいと思いつつ)
先日ご紹介した「脳を活かす勉強法」の本も、消えていたので、次女が読んでくれたか、と思ったら、珍しく長男が読んでいました。
マンガなら、少年マンガ青年マンガから、少女マンガまで制覇する長男で、ライトノベルは読んでも文学書などはほとんど読まず、ベストセラーにも興味がありません。親としてもあまり期待していなかったので、ちょっとびっくりしました。

そろそろ勉強しようかなと思って、それには効率的にやった方がいいかな、と読んでみたそうです。(大学の二年間は何やってきたんだか・・・)
自分がやってる方法が結構あって、それが科学的に解説されてて面白かったそうです。

初めて、本のある環境は必要なんだ、と実感しました。
自分は、あんなに本に囲まれた贅沢な環境に育ちながら、マンガばかり読んでまともな本は少ししか読まず、なんてもったいないことをしてたんだろう、とつくづく後悔してます。
それでも、本の知識だけは人並みに持てて、子ども達に多少は教えることができただけでも無駄ではなかったのでしょう。

本をたくさん読んだからって偉くなれるのか、成功できるのか、と聞かれると、定かではありません。
だけど、成功している人のほとんどは、確実に大量の本を何度も読んでいますし、読書は必要条件であることは確かだと思います。
そのうえで大量の行動を起こさなければ、十分ではないのでしょう。

でも読書は、いろんな世界を体験でき、感動できるってことだけで価値があるでしょう。
せっかく、読もうと思えばいくらでも本が手に入り、小さい頃から働かなければならないとか戦わねばならない、などの過酷な環境でもない日本にいるのです。
毎日10分でも15分でも時間があれば、本は読めます。
たくさんの子ども達が、たくさんの感動を味わってほしいなと思います。

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